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四言で綴る斜な日記。毎日更新する予定でした。
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 腹部。手が突き抜ける。
「すげえよな」
 感嘆の言葉を漏らしながら私の腹の中で手を振る彼。語弊があるかもしれないが、確かに「腹の中」なのだ。
「スカスカだな……ハル、痛くないのか?」
 痛いとすれば、それは彼の頭のことだろう。
「別に……感覚は無いわね」
 彼の手が、私の半透明で青白い体をこれでもかと言うほどに掻き回す。私の体は触ることが出来ない。特別な場合を除き、私への物理的な干渉は全て無意味に終わる。
「エミ、こっち来てやってみろよ。奇跡体験だぞ!」
 ついには手を激しく上下に振り始めた。
「ケンジ! ダメよ。ハルがかわいそうじゃない」
 エミは良き理解者だが、如何せんどこかズレている。
「いいじゃんか。減るもんじゃないし」
 私の神経が磨り減るよ。
「じゃあ、ハル。自分の体なんだから、少しは触ってみろよ」
 ケンジが『私』の方を向いて言った。あくまで私の方ではなく。
「えー? やめとくよ。だって痛そうだもん」
『私』が言ってることは分からないでもない。
「こっちのハルは痛くないって言ってるぜ。試すだけ試してみろよ」
「自分の体に手を突っ込むなんて正気の沙汰じゃないよ」
「んー、そうか……ま、いいけど」
「もうすぐ鐘が鳴るよ。そろそろ席に着こう」
 いい加減うざったくなってきたケンジの猛攻が止まる。さすがエミ。
 三人は各々の席に着き、次の授業の準備をする。暇になった私はそそくさと窓から退出する。
 なんでこんな事になったのだろう。虚空を漂いながら思う。
 私がこのような状態――幽霊となったのは、つい昨日の事だ。ただ、私の記憶は、昨日――特に朝から昼までの部分が欠落している。その時に何かあったのだろうと言う事は想像に難くない。
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 太陽なんて消えてしまえ。そんな悠長なことを考えていた、極暑の朝。
 灼熱の光線は灰色のコンクリートを用い、天と地から私たちを焦がす。蒸すような熱気が精神と身体を蝕んでゆく。
「暑ぃ……エミ、なんとかならないか?」
「そ、そう言われても」
「ハル、なんとかしろ!」
「この状況を打破できるのならとっくの昔に、しかも率先してやっているでしょうね」
「だぁ~ちくしょう! 暑い、暑い、暑い!」
 いつもの通学路。地平線には逃げ水。草木も歪む蜃気楼。……学校に行きたくない。
「なあ、やりきれなくなっているのは俺だけか?」
 元気だけが取柄のケンジですら今のように根を上げている。刺々しい頭から一筋も二筋も流れてくる汗。おかげで見苦し……おっと、暑苦しい顔になっている。さすがの馬鹿でもブレザーを着て来る事は自殺行為だと思ったようで、素直にワイシャツを着ている。が、すでに汗だく。
「私も……ちょっと限界かも」
 エミは他の女子と同じように、ワイシャツの上にカーディガンを着るという自殺的な行為に至っている。私からすれば信じられないの一言に尽きるのだが、我がクラスの徹底した画一主義を考慮して、やむなく認めることにする。酷暑の中でも揺らぎを見せないその笑顔には、爽やかな汗が滴っていた。涼やかなスカートが歩くたび蝶のように舞う。美少女は何をしても美しい。ああ、軽い嫉妬。
「悔しいけど同感ね。この猛暑は流石に耐え難いわ」
 私はなかなか勇気のある服装をしている。ワイシャツと下ジャージの組み合わせはそうそうマネできるものではない。ってか、すでに女子の風体ではない。額には汗。何度拭おうがいくらでも湧き出てくる。鬱陶しい。
「それにしてもその髪、暑苦しいな。切ってしまえよ」
 寝癖も直していないぼっさぼさの髪だ。が、つんつんした頭で言われるとなんだか癪だ。
「アンタだって結構暑苦しいわよ? 鏡を貸してあげようか?」
 エミがやや困った顔をしながら割って入る。
「喧嘩しないで。ほら、急がないと学校に遅れちゃう」
「まだまだ遅刻するには早すぎる時間だぜ。むしろ暇なくらいだ……」
 と言いかけて、ケンジは足を止める。
「紹介? ……分かった」
 電波か何かを受信したらしい。
「暇だし、あの人を紹介するよ」
 また何か言い出した。突拍子も無い彼の発言にはいつも頭を悩ませられる。下手をすると間違った方向へ話がぶっ飛んでゆくので、所々に適度なツッコミを入れてやらなければならない。
「あの人って誰」
 自信有り気にケンジは言う。
「ほら、最近近所に越して来た、自称マッドサイエンティスト高村さ」
「自称なの?」
「自称だが、他称でもある」
「で、マッドなの?」
「マッドの中のマッド。あの人の技術は凄いぜ!」
「なんでその人を紹介しようなんてトチ狂った発想が出てきたの?」
「ハル、とち狂ったは言いすぎだよ」
「それはな……俺にも説明してくれ! マッドサイエンティスト高村!」
 私とエミはとっさに反応する。
「やっぱ狂った?」「誰に言ったの?」
 ケンジは困ったように返答した。
「いや……さっきから声が聞こえて来るんだよ。『暇ならば、自己紹介も兼ねて二人の御目に掛かりたいのだが。どうかね、ケンジ君』って」
 なるほど不可思議な現象にエミも、
「ケンジだけに聞こえるの? ……幻聴じゃないかしら」
 私も、
「おめでとう。ついに電波を受信できるようになったのね。……これからはあまり近寄らないようにしてね」
 まず疑ってかかる。ケンジは頭を掻きむしりながら叫んだ。
「だぁ~違う! 高村ぁ! 変人扱いされたじゃないかよ!」
 落ち着け。
「大丈夫。あなたは元から変人よ。拍車が掛かっただけ」
「元からはちょっと酷いよ、ハル」
「高村! そろそろ助けてくれよ。限界だ!」
 数秒のタイムラグの後、どこからか突然声がする。
「面白そうだったからな。しばし観察していたのだが……いやはや。迷惑をかけてしまったね」
 近くで声が聞こえたような気がした。後ろからか。いや、右からだ。ふと目を右にやってみると、そこには汚い電柱と若干黒ずんだ水色のゴミバケツしかなかった。気のせいかと思い、後ろを見てみるが、人っ子一人居ない。
「高村……そろそろ茶番はやめてくれよ」
「む、そうかね。では、馳せ参じよう」
 ガタン!
 右から音。振り向くと、ゴミバケツに下半身を埋めた男が一人。バケツの蓋を帽子代わりに、立ったままそこに居る。
「初めまして。高村と呼んでくれたまえ」
 茶、黄、赤の染みが点在する小汚い白衣を着たその人は、不動のまま私達と会話を続ける。ゴミ箱の中身を覗いてみたい欲求に駆られた。
「えーっと、こっちがエミ」
 ケンジはエミを指す。エミはこくんと首を曲げた。
「そっちのまな板がハル」
 !
「それはどういう意味で言った?」
「身体的な特徴を一言で表そうと思って」
 !!
「ああ、私は今、暴行に及ぼうとしているよ」
「早まらないで、ハル。ケンジだって悪気があったわけじゃ……」
 そんなわけは無い。
「悪気の塊だったでしょう?」
 薄ら笑いのケンジは言った。
「ま、中3でソレじゃなぁ。気にするのも仕方ないさ」
 何かが切れた。堪忍袋の尾だろうな。
「ケンジも煽るような事言わないで!」
 エミが止めに入るが、時すでに遅し。鬼神光臨。
「さ、ここからはスプラッターになるよ。気を付けてね?」
「待て、待ちたまえ! もう少し思慮深くだな……」
「生きて帰りたかったら黙っていなさい」
「謝る! 謝るから殴らないでくれ!」
「フフフ……私だけでなく世界に数多居る中学3年生を愚弄した罪は重いわよ……」
「ハル! その笑い方は怖いからやめて!」
「悪かった! すまなかった!」
「さあ、あの世で悔いると良いわ!」
「お願いだからその笑いを止めて!」

「で、こっちがハル」
「どうも」
「素晴らしいお嬢さんだね。目が真っ赤に充血した時はどうしようかと思ったが」
「真っ赤? 気のせいじゃない?」
「そ、そうかね。無かったことになっているのだな」
 何のことだかサッパリ解らないという設定である。
「ところで、どうやって俺に言葉を送ったんだ?」
「まあ、そこは世紀の科学者の天才的な技術によって成される技だ。まず、このアンテナを気付かれないように君の服に付けてだな……」
 ……無線? 科学者もへったくれもあったもんじゃないな。
「こちらのトランシーバーで……」
 トランシーバーって言っちゃったよこの人。無線だって認めちゃった。
 ツッコミを口にする気力も失せた私は、ふと、エミに訪ねる。
「今何時だか分かる?」
 エミは思い出したように腕時計を見た。
「あ……高村さん、私たちは学校があるので……」
「もうそんな時間かね。では、お暇させてもらおうか」
 その高村とやらは、華麗なバック走をキメながら、天を指してこう告げた。
「午後からは雨が降る。それも雷を伴った強い雨だ! 気を付けたまえよ!」
 快晴であり、空は雲ひとつ無く澄み切っていて、日本晴れである。どの表現を用いようとも、これだけは確かなことだ。
「雨とかありえないし」
 ぼそっと呟いてみた。
 ケンジは彼へ別れを告げた。
「さよーならーマッドサイエンティスト高村ー」
 その称号は必須なのか。
 素直に高村へ手を振るエミに、気になっていた事を訊ねてみた。
「で、今何時?」
「えっと、8時半」
 遅刻確定時刻。
「走るわよ、エミ」
「え、あ、ちょっと待……」
 私はエミの手を握り締めて直ちに駆け出した。腐っても元陸上部。ショートホームルームが終わるまでには着けるだろう。愚直に手を振り続けているケンジなんか無視に限る。
「……! ちょっ、待っ……放置すんな!」
 後ろで馬鹿の鳴き声がした。

 清閑な廊下。三人だけの小さな世界に、パタパタと足音がこだまする。……二人分の。
「エミ……ごめんね。私のせいで……」
 出来得る限りの申し訳無さをこめて、エミに言った。
「まったくだな。エミが倒れるのも無理はないぜ」
 ケンジに言ったつもりはないが。
 私に振り回されてふらふらになったエミは、学校に着くやいなや失神して倒れてしまった。その後すぐに意識を取り戻したのは不幸中の幸いといったところか。
「私の方こそ。心配かけてごめんなさい」
 罪悪感で満ち満ちている私の心を察した言葉だったのだろう。が、無理して強がられると余計に申し訳無さが増す。
「そ、それよりもこれは……やっぱり、恥ずかしい」
 天地が逆転しようとも、私にだけはやらないだろう。確信できる。
「病人が何言ってんだ。素直に甘えとけよ」
 ケンジの背中にはエミが嬉しそうに乗っかっていた。まるでいとおしい物にほお擦りするかのように、まるで大切な物を抱きしめるかのように、 エミはその幸せそうな顔をケンジの肩に乗せていた。エミの心はすでに夢の中……
「チッ」
 ……私の口から出た?
「ん? どうした、ハル」
「……なんでもない」
 時々、自分で自分が解らなくなる。理解不能な嫌悪、憎悪。不意に私の心を支配し、不意に去ってゆく。今までも何度かあったが、今回のは……我を忘れるほど強力だった。
「んーと、保健室はどこだっけ?」
 エミは顔を離し、不思議そうに言った。
「知らずに歩いてたの?」
「仕方ないわ。バカだから」
「変な同情するな! で、どこだ?」
「三階の突き当たり。えっと、事務室横の階段を上がった方が早いわ」
 違う。中央階段を通った方が早い。エミが指した方は、むしろ遠回りだ。
「三階……遠く感じるな」
 エミ……
「ハ、ハル……? 顔が怖いよ?」
 う……またか。刹那の忘我。不愉快だ。
「気のせいじゃない? 至っていつも通りの顔よ」
 心配させまいと笑顔で返す。エミはまだ訝っているようだったが。
「眉間にしわが寄ってたぜ……そうか! 大を我慢して――」
「黙れケンジ」
「小だと言うのか?」
「消え失せろバカケンジ」
「ひっでえなぁ」
 セクハラ発言を躊躇無く発するケンジの背中で、エミがどこか遠い目をして呟いた。
「仲いいね……」
『ぜんぜん!』
 私とケンジは勢い良く否定した。
「ほら、息ぴったり」
『違う!』
 私とケンジが否定するたびに、エミの顔に物悲しさが募ってゆく……ような気がした。
「うらやましいな……」
『どこが!』
 エミは含みを乗せた笑顔で漏らす。
「……そこが」
 まるでもう一人、自分がいるかのような感覚。いつ何時現れるか分からない、不安定な自分を私は疎ましく思った。制御も出来ない。鬱陶しい。
「おい、根暗少女」
 コイツには縁の無い悩みなのだろうな。机に手をつくケンジに、気怠く返す。
「誰が根暗少女だって?」
「給食、取りに行かないのかよ」
 もうそんな時間か。
「並ぶのが嫌いなのよ。アンタは愚鈍に並んでなさい」
「まったく。そんなだから友達もろくに出来ないんだ」
「余計なお世話。私は孤独が好きなのよ」
「孤独、ねえ……ま、いいけど」
 ケンジは肩をすくめて列に並んだ。
「アイツのどこが良いんだか……理解に苦しむわ」
 エミはウザイの一言に尽きるケンジのどこに惹かれたのだろう。
「ハル、一緒に食べよ!」
 この子の思考回路を覗いてみたいな。
「大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。軽い熱中症だそうだから」
 意外にも本当に大丈夫そうだ。これで少しは私の罪悪感も晴れると言うものだな。
「あれ? 給食持ってこないの?」
「夏バテかしらね。食欲が無いのよ」
 軽い嘘だ。食べる気がしないのは確かだけど。
「そんな時こそ食べなきゃダメだよ。ほら、体力つけなきゃ」
「エミに言われるとはね。私も末期かしら」
「もう、またそうやって捻くれるんだから」
 後ろでカタカタと食器のぶつかる音がした。
「ほら。優しいケンジ君が可哀想な捻くれ少女のために持ってきてやったぞ。大地に突っ伏して感謝しろ」
 盆に乗っかった給食が私の机に乗る。
「ん、気が利くじゃない。珍しく」
「人の親切は素直に受け取れ」
 碗状の食器の中にウズラのゆで卵が山のよう。
「どこが親切!?」
「大好物、だったよな」
「ええ! この世で最も疎ましき食べ物よ!」
「好き嫌いはダメだよ、ハル。卵はきっと栄養付くんだから」
「ほら、エミが推奨してるんだ。全部かっ込め」
「冗談!」
「じゃ、俺が取り押さえるから」
「私は口に卵を入れるわね」
「どこでそんな打ち合わせを!?」
 ケンジの執拗な猛攻とエミの矢継ぎ早な凶行にいささかの倦怠感を覚えながら、私は思った。
 なんだ。杞憂だったじゃないか。エミの悲しそうな顔、私の不可解な感情、全ては杞憂。何も気にすることは無い。いや、むしろ気にするべきはエミの恋路ではないか。気弱なエミは私がフォローしてやらなければ駄目だ。うん。こういう事には慣れていないが、応援くらいならできるだろう。
「今だ! エミ、卵を!」
「はい、口開けて」
「これは立派な犯罪よ! 私に何の恨みが……ふぐっ」
 喋っている途中に突っ込むのは反則だ。呼吸困難になってしまう。
「一個ずつじゃあ時間が掛かり過ぎないか? どうせなら」
「まとめて全部? それはちょっとハルが可哀そう」
「大丈夫だって。男か女か分からない風体してんだから」
 関係ないし余計なお世話だ!
「それもそうだね」
 納得しないの!
「じゃ、流し込みますー」
「こ、この非道! 少しはインターバルを……ふがっ」
 喋ってる途中はやめろ!
 土砂降りの空はウズラと相まって私を酷く憂鬱にさせる。
 どうにか吐かずに放課後まで耐えたけれども、そろそろ限界が訪れようとしていた。
「エミ……私が嘔吐したら、迷わず見捨てていいわ」
「ごめんなさい。ここまで嫌いとは思ってなかったから……」
「わかった。お前のゲロを見たら即刻退散させてもらうぜ!」
「誰のせいだと思ってんのよ!」
 さて、このざんざん降りでは帰るに帰れない。家まではかなりの距離があるから、無理矢理強行突破などと言う事は不可能だろう。
「どうするよ、この雨。止みそうに無いぜ」
 私たちは玄関で立ち尽くしていた。大粒の雨と落雷を眺めながら。エミがぼんやりと雨粒を眺めて言った。
「傘って持ってる?」
「朝はかんかん照りだったんだぜ? んなもん持ってくるやつ居ねえよ」
「そっか……」
 その時、近くで雷が落ちた。煌く閃光、轟く雷鳴。
「きゃぁあっ!」
 エミはおもむろに叫び、近くにあった手頃なもの――ケンジの腕にしっかと掴まった。
「おぉう!?」
 ケンジの方もだいぶ驚いたようで、抱きつかれた途端に体が硬直した。みるみる真っ赤に染まっていくケンジの頬――
 ――離れろ
「……っ!?」
 ノイズのような思考が頭の中を巡る。反芻し、刻み込まれてゆくこの感情。また……か。もどかしい!
「ウズラのせいかしらね……気分が悪いわ……」
「いつも低血圧だとか言って気分悪そうにしてんじゃねえか。朝と大差ないぜ」
「ハル……大丈夫?」
「ええ、今のところはね」
 とりあえず、早々に帰宅しよう。そして、早めに寝よう。洗面器は必須だな。
 私はこの悪天を睨みつけた。傘が無いことを良いことに好き放題暴れまわる。
「傘……無いかなぁ」
 エミはカバンの中をまさぐった。しばらくガサゴソしていたが、やがて諦めたように肩を落とす。
「折り畳み傘も無い。どうしよう……」
 折り畳み傘か。懐かしいな。小さい頃はよく親に持たされたりしたものだ。
 私は自分の青いカバンの中を見た。乱雑に詰められた教科書、参考書。どれ、んー…………ん? おや。
「あった」
 カバンの最深部からひしゃげた小さな折り畳み傘が出てきた。三年間ずっと放置されていたに違いない。
「よくやった、ハル!」
 私はくたびれた傘を見る。それほど大きくない、むしろふつうの傘よりもやや小振りだ。せいぜい入れて二人。どうすんのよ。
「ケンジ……まさか、三人で入ろうなんて無茶な考えは……」
「他に何があるってんだよ」
 二人、か。一人だけ帰るのも忍びない。かといって一人だけ置いていくのも忍びない。
 ……ああ、そうか。こんな時こそ。
「私、急用を思い出したわ。ええ、大至急。傘なんか差して行ったら送れちゃうのよ」
 若干クサい演出だが、恋愛経験が皆無の私にはこれくらいしか思いつかないな。
「へえ、俺たちにくれるのか。そりゃあ助かるな」
 冗談のつもりだろうか。
「その通りよ。この傘はあなた達にあげるわ」
 私は手に持っていた傘をケンジのみぞおち辺りにぶつけた。
 ――ダメ
「さて、私はお暇しようかしら」
 私は豪雨を一瞥し、脇目も振らずに駆けた。すでに雨で白い闇と化した道路に向かって。
 ――ダメ!
「おい、待てよ!」
 雨は予想以上に冷たく、体の芯まで凍えてしまいそうだった。
 ――止まれ! 私は、私は!
 ケンジ達の声を振り切るため、私は叫ぶ。
「エミ。せっかくのチャンス、無駄にしたら呪うわよ?」
 ――逃げるな!
 わずかにほくそ笑み、成功を願う。相合傘――最高のシチュエーション、だ。……よね?
 ガムを噛んでいる時のような、糸でも引いていそうなほど粘っこい音が、私の靴下と外靴の間から鳴っていた。湿っぽくて気持ち悪い。BGMは、先ほどの不協和音と、この激しい雨音だ。他には、私の荒い息遣いと、必死に鳴っている心臓の音。
暗い、灰色の世界。止む気配を見せない大粒の雨は冷酷な強風と結託し、私を容赦無く打ち付ける。これは……傘があっても濡れてたな。
 ――逃げた
 また例の……ああ、鬱陶しい。
 ――逃げてしまった
 ストレスかな……うん、今度カラオケにでも行こう。
 ――臆病者
「ちがう!」
 周りに居るのが雨粒だけで良かった。
 ――違わない。友情に託けて自分を偽った、臆病者。
 違う。ちがう。黙れ。だまれ!
 私はひた走る。
 逃げるためではない。振り切るためだ。下らない戯れ言――うんざりする。
 逃げるためではない。忘れるためだ。愚かな自分――消えてしまえ。
 ――上辺に居座る臆病な私。私を圧迫し、苦しめる。関係が壊れるのを恐れてる、汚い私。
「 」
 その言葉は雷鳴によってかき消された。直後、世界が白く染まり、私は気を失う。
 呪われた言葉――私の口から無意識に出た言葉。……無意識。そう、無意識。
 中三にして迷子というのはなかなか情けないものだ。どうしようか。
 見慣れない道路。目の前には『本里』と書かれた表札。手がかりが少ないな……
 そもそもどうやってここに来たんだっけ。ここへ至る道順すら覚えていない。酒の力だろうか。いや、泥酔するまでは飲んだことが無いし。でも、ここに立ち尽くしていたということはやはり何かしら……夢遊病か。それは無いだろう。今まで夢遊病である片鱗などは無かったし。
 ……悠長な思考だったのだな。しかもこの呑気さはあの事に気付くまで続いたというのだからお笑い種だ。
 ここに留まっていても何も進展しないだろうということを悟って、重い腰を動かそうとしていた時だった。向こうから見える人影。それはまさしくエミのものだった。誰かと話しながらこちらへ歩んでくる。助かった。
「エミ、ちょっと助けてくれるー?」
 わざわざ手を振って彼女を待っていたのだが、私の姿を確認するやいなや、立ち止まって隣に居る人と談義し始めた。
 誰だろうな、あの人は。エミと一緒に並んで歩くような人が思い当たらないのだけれど。
 待っていても埒が明かない。さっさと道を訊いて、とっとと帰ろう。そう思い立ち、エミの元へ駆け出そうとした時、私はやっと気付いた。
 天然――そう言われても仕方が無い。まさに愚の骨頂。
 私の足は見事に地面を通過――通過は表現が悪いか――その後つんのめり、腹這いになった状態で、空中――地面からおよそ数センチの所へ体ごと投げ出された。
 何が起こったのか、しばらくは分からなかった。当然だ。地面を蹴れば歩ける、と勝手に想像し、それがあたかも人類普遍の原理であるかのように15年間振舞ってきたのだから。私は浅学だったろうか。そうではない、そうではないと信じる。この不可思議な現象への疑問とは別に、もう一つ考えなければならないことがある。倒れるときに垣間見た、なにやら青い物……私の腕の動きに合わせるかのように、ちらちらと視界に入ってきた物。私はふと、自分の腕を見た。
 青い。しかも半透明だ。それはガスバーナーの火に似ていた。存在すらうかがわしい、透き通っていて、淡く儚い青。青……青!?
 私の腕が、体が、透き通っている!? 信じられない。信じられない! こんなこと、現実にあるはずが……
 ……あ、夢か。
 わけの分からない土地に立ち尽くしていたり、唐突にエミが現れたり、体が青く透き通っていたりしたのも、全てに合点が行くいい感じの結論じゃないか。うすうす感づいてはいたけれど、ここまで明確な虚構が出て来たのだから、もうこれは最終結論確定だ。さて、楽しむのも悪くは無いが、こんな意味不明な夢からはさっさと抜け出したいのでね。そう思い、私はほっぺをつねろうとした。
 ……指に頬の感触を感じない。スカスカと、文字通り雲を掴むような感覚。まさかと思い、手をグーにして、思い切り顔に向けて振ってみた。痛みはおろか、皮膚の感覚すら無くなっている。貫通……しているのだろう、すでに右手は左耳を掴めるくらいの位置に到達している。
ストレスかな。ろくな夢を見ないし、近々エミを引き連れてカラオケにでも行こう。
 とりあえず現実へは戻れないことが分かったので、この稀有な夢をエンジョイすることにする。夢なら、どうにかこうにか頑張れば立ち上がれるんじゃないか。きっとそうだろう。私は立ち上がろうとしてみた。すると、ゆっくりであったが、体が持ち上がった。そしてそのまま宙に浮かぶ。
 あー、なるほど。思った通りに動くのね。なんか、TVゲームの感覚に近い。
 立ち上がれてホッと一息……つく暇も無かった。何かがこっちに来る。猛ダッシュでやって来る。この人はエミと会話していた人じゃないか。しかも笑顔。満面の笑みだ。
「喰らえ! 飛び膝蹴り!」
 言うが早いか、その人は空中に身を投げ出し、スニーカーの裏面を見せるようにして飛び込んできた。とっさの事だ。反応できるわけも無い。その人の靴が私の腹部をえぐる。耐え難い腹痛。私の体は後ろの方へ投げ出され、空中でゆっくりと静止した。
「どこが飛び膝蹴り!? ただの飛び蹴りじゃないの!」
 反射的に口から出たが、ツッコむ所はそこじゃない。むしろ言及すべきはこの痛みだ。夢……じゃないのか。夢であるはずなのだ。夢じゃないと、私が困る!
「やっぱハルじゃねえか! ま、どんな姿でもお前はお前だな」
「ハル……やっぱりハルなんだね!」
 どの辺でこの二人はそう判断したのだろうか。
「ハル!」
 エミは何かしら機会があるとすぐに私に抱きつこうとする。私は若干の心構えをして、エミを待った。私の元へ駆け寄るエミ。溢れんばかりの美麗な微笑を顔に宿しながら近づき、私を抱擁しようと、手を伸ばした。エミの手は空を切り、重力に流されるまま私の足元に倒れた。うつ伏せになっているエミは、なにやら悲しい声で呟く。
「さわれないよぉ……」
 私が一番ビックリだ! 飛び蹴りはきちんとヒットしたのに、なんでエミの腕は通って行くんだ!?
目眩がする。吐き気もするな。ああ、訳が分からない。夢じゃないのか。じゃあこれは何だ。この素っ頓狂な体は何だ。
「楽しそうじゃねえか。その体」
 私の驚いた顔を見てよくそんな事が言えるね。
「楽しくないよ。だって、さわれもしないんだよ!」
 エミは立ち上がりざまに怒る。
「触れないから楽しいんだろ。何でも出来そうだよなぁ……」
「何考えてるの! ハルが大変な目に会ってるのに!」
「だってよぉ、あっちのハルを見たろ? 俺はむしろ嬉しいね。元のハルが残っててくれて」
「それは……そうね。何があっても、ハルはハルよね」
 置きざりかい。
「どうすっかな……」
 エミの頭上に電球が一つきらめいたように見えた。
「ねえ、二人を会わせてみたらどうかしら」
「混乱するだろうよ。それよりも、医者か誰かに……」
 気にしないで。夢ですから。夢のはずですから!
「そうだ、あの人の所へ行こう!」
 エミは首をかしげながら訊ねる。
「あの人って、高村さんのこと?」
「ご名答!」
 ……誰?
「じゃ、俺はカバン置いてくるよ。その後高村に訊きに行こうぜ!」
 そう言って目の前にあった家へ入っていった。そうか。
「あの人、本里って言うんだ」
 その言葉を聞いた途端に、エミは驚嘆すべき速さでこっちに首を向ける。
「え……?」
「妙に馴れ馴れしいけど。何? エミの彼氏?」
 エミは無表情のまま顔を赤らめた後、若干怒るようにして言う。
「うそ! 嘘だって言って、ハル!」
「何が?」
「ケンジを知らないはず無いでしょ!?」
「ああ、下はケンジって言うんだ。名前で呼び合う仲なんだ……へぇ……」
「私は……知ってるのよね?」
「何言ってるの? エミはエミでしょう?」
「……ケンジの事、忘れちゃったの?」
「忘れるも何も、初対面でしょ」
 だから、見知らぬ人に飛び蹴りを食ったときはものすごく驚いた。
「頭がとっても爽やかな人ね。エミ、悪いことは言わないからさっさと別れてしまいなさい」
「ハル……もしかして……」
 エミの言葉を遮るかのように、玄関の戸が開く。
「さあ、行くか!」
「待って! ハルが……ハルが!」
「エミ、どうしたんだよ」
「記憶喪失なの!」
 は?
「いいじゃねえか。そのうち高村が何とかしてくれるさ」
「良く無いよ! だって、ケンジのことも忘れてる!」
「そうか……だが、性格が変わっていないだけマシだと思わないか?」
「うん……そうだけど……」
「おいおい自己紹介するさ」
「冷静なんだね」
「あんな事があった後じゃなぁ……そりゃ冷静にもなるって」
 夢だから何でもできる。空を自由に飛んでみたり、家の壁をすり抜けて中に入ることもできる。もはや少しの不安もない。だって、夢なんだもの。
「なんであの時、俺の蹴りだけヒットしたんだろうな」
 言わないで。言わないで!
「都合良く忘れようとしていたのに、なんでまたそんな事言うのよ」
 ケンジとやらがとぼけて言った。
「忘れる? なんで」
「これが夢の中のはずだからよ!」
「ハル、夢じゃないよ。だってハルを見つけた時、私とケンジでお互いのホッペをつねってみたもん」
「めっちゃ強くつねるんだもんな。ちぎれるかと思ったぜ」
「夢よ。夢以外の何物でもない。そう、自室の布団の中でみている悪夢。他に何があるって言うのよ」
「いや、違うって。お前だって蹴り食らった時痛かったろ?」
 痛かったさ。痛かったよ。身悶えるくらいに。
「いいえ。往々にして夢の中の登場人物はもっともらしい事を言うものよ」
「いつも冷静なお前らしくないじゃねえか。現実から目を逸らすなよ」
 何故この人が私のいつもを知っているのか全く不可解で奇っ怪なのだが今は不問にしておく。
「なんで二人ともそんなに冷静なのよ! 幽霊みたいな私が突然現れて、逃げようともしなかったわけ!?」
「そりゃあ……アレだ。ほら、アレ」
「アレって何よ」
「エミ、頼んだ!」
「え!? え、えっとね、私たち、ついさっきまでハルと会っていたの」
「どういう事?」
「それはね、えーっと……あの後、二人で帰る途中に、ハルが道ばたで倒れているのを見つけたの」
「答えとしては不適なんじゃない?」
「とりあえず、聞いて」
 その話がどう繋がると?
 ケンジとエミが代わる代わる説明していった。
「んで、さすがにウズラ30個はマズかったかなぁと思って、ハルを叩き起こそうとしたんだが」
「いくら呼んでも返事が無くって」
「俺が4の時固めを食らわしたのに、一向に返事がないモンだから」
 その行為にいささか疑問が。
「すぐに救急車を呼んだの」
「初めてだったぜ。救急車に乗るなんてな」
「しばらくして、病院に着いたの。それで、いろいろ検査して……」
「ま、脈あったし。そんなにおおごとでも無いかなーとか思ってたんだが」
「おおごとだったの」
「おおごとだったな」
 口をそろえて言うほど?
「待合室で雑誌を読みながらハルを待ってたんだけど……」
「突然『この変態! どこ触る気よ!』って声が聞こえてきてさ」
「ハルの声だ、ってすぐに分かったわ」
「でさ、その後出てきたハルがまた……な」
「うん。すごかったね」
 勿体ぶってないでとっとと教えたらどうですか。
「診療室を飛び出したハルがこっちに走ってきて『ケンジ! エミ! ありがとねー、心配してきてくれたんだぁ!』って」
「数年来見ていない、とびっきりの笑顔で」
「……笑顔で」
 笑顔で……
「口調も違ったしなぁ」
「性格も違ったね……」
 ……人違いだろう。
「俺は直感したよ。こいつ、ボケに転向しやがったなって」
 違うだろ!!
「でも、ほんとに別人みたいだった」
「あの時の衝撃は……忘れようがないぜ」
「さばさばしてる、っていうか、垢抜けている、っていうか……」
「あれはあれで新鮮だったけどな」
 ……それで?
「それで、私たちはハルを元に戻そうと……」
「ハルの前でいろんなボケをかました」
 待て。何かが根本から間違っている。
「だけど……乗っかってくれなくて……」
 エミもやったのか。
「あまりに居た堪れなくなってきてな」
「逃げるようにして帰ったの」
「んで、歩きながら、今後の漫才について井戸端会議に花を咲かせていると……」
 漫才?
「私を見つけた、と」
「ご名答」
 ……どこからが嘘だ?
「で、その後蹴った理由は?」
「それはね、もしハルなら……」
「もしハルなら、何が起こってもまずツッコミを入れにくるだろうからな」
 それで飛び膝蹴りか。
「予想通りツッコミだった、と言うことで」
「正真正銘、本物のハルだ、って思ったの」
 私が幽霊になっていることに疑問はないのか。
「まあ、ちょっと透けてるけど関係ないし」
 大有りなんじゃないだろうか。しかも飛んでるし。
「いいじゃねえか。楽しそうだし、命に関わりそうなことでもないし」
 それは……確かにそうだが。
「ほら、説明している間に着いちまったよ」
 ケンジが指で示す方向を見ると、そこには割と大きな古めかしい一軒家が建っていた。
「ここ?」
 表札には『高村』と書かれていた。
「本名だったんだ」
 エミは感心しながら言った。どういう意味だ。
「実は俺も、中に入るのは初めてだったり……」
 不安だ。
 玄関で出迎えてくれたこの人は、若干の驚きとおののきを顔に浮かべながら言う。
「ハ、ハル君か。まさか研究所を朱に染めたりはしないだろうね?」
 なんで怯えてるの?
「大丈夫です。ウィークポイントさえ刺激しなければ」
 なに? 何の話?
「あれ……ハル、もしかして高村さん……覚えてないの?」
 いくら記憶を探し漁りひっくり返ししようとも、常時白衣の人間は見当たらない。
「初対面だと記憶しているけど?」
「なに? 別人かね? 双子だったのか。気付かなんだ」
「あー……エミ! 説明してやってくれ。俺とハルはその間に打ち合わせすっから」
「えぇ! そんな!」
「ほら行くぞ、ハル」
 ケンジは玄関を離れ、誰も通らない私道に歩みを進めた。仕方がないので私も付いてゆく。
「ハル、あの人はマッドサイエンティスト高村といってな……」
「なんでマッドなの?」
「そこはツッコまなくていい」
 誰しも疑問に思う所だけど。
「あの人はとても優秀な科学者なんだ。きっとお前の謎も、科学的に解明してくれるだろう」
「透けるとか、触れないとか?」
「ああ、そうだ。んで、こっからが大事だよく聞け」
「いいからさっさと言いなさいよ」
「それはだな……何があっても高村さんに危害を加えない事。いいか?」
「いいも何も、私が何をするって言うのよ」
「何を言われても、何を食わされても、絶対に暴れるなよ」
「暴れるって何よ」
「いいから約束しろ。さ、はやく」
 ケンジが何を恐れているのか、私には皆目見当が付かない。が、とりあえずこの辺は従っておいた方が良いのだろうな。
「よく分からないけど、とりあえず誓っておくわ」
「よし、これで万事OKだな!」


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