「邪魔だ。消えてしまえ、臆病な私」
「その通り。だから……はい!」
彼女は私の手にガラスのナイフを押しつけた。それの意味が、私には痛いほどよく分かる。
「見ててあげる。私が手を下すまでも無さそうだし」
冷たくて、悲しい微笑みを私に見せた。
私は刃を喉元に向ける。私は要らない。邪魔なんだ。そう言ったじゃないか。心の底から、消えてしまいたいと願ったじゃないか。
「早くしてよね。私はこれから、リトライするんだから」
私は勢いを付けるため、ナイフを喉から離した。
「要らないんだ……私」
「まさかぁ! そんな事ねえよ」
子供くさい声がする。もしやと思って振り返ると、目の前にはスニーカーの裏側があった。
「かかと落とし!」
まず鼻に激痛。悶える暇も無く、背骨が折れそうなほど体が反れ、後ろに倒れた。空中をカーリングのストーンのように滑っていたが、数秒後にようやく静止する。即座に起き上がって、言うべきは一つ。
「辞書くらい引けこのバカケンジ! どこがかかと落としだ!」
そして私はなぜかここにいるバカを睨み叫んだ。
「そうそう。それくらい元気じゃねえと、俺たちの隣は務まらねえぜ!」
ケンジは堂々と言い放つ。隣……そうか! ハハッ、このバカケンジ……
「そうね、忘れていたわ」
体勢を立て直す。視界がよりはっきりと、鮮明になった気がする。
「そうだ、忘れちゃいけない」
基本だろう?
「ボケには」
「ツッコミが居ないと!」
『私』は溜息混じりに私達に言った。
「……なに言ってんの?」
やっと解った。朝の違和感。
「あんたらボケっぱなしなのよ。三人ともじゃないの」
「締まりがないよなぁ」
三人組のツッコミ担当。生きる意味なんて、それだけで十分じゃないか。
「これは返すわ。だって、死ぬ意味が無くなったんだもの」
私はナイフを地面に落とした。乾いた音がコンクリートに響く。
「臆病者……この期に及んでまだ……消えたくないと言い張るなんて!」
『私』は素早くナイフを拾い、その刃を私に向けて振り上げる。鋭い刃は妖しく光り、私の眼前に迫る。
「っと、危ないからそんなモンしまっちまえ」
鉄板……ナイフの代わりに、錆び付いた鉄板が私の視界を占めた。ガキン、と金属音が響く。
「体を張って助けてみたらどうなの? その辺に落ちていた物を使うんじゃあ、感動も半減よ」
「中三にそんな度量を求める方がおかしいって」
しかも横から鉄板だけ出して……格好悪い。
「この臆病者を庇わないで、ケンジ。こいつは……友達を実験台にしようとした汚い女よ! 私は私の手で、ケリを付けなければ……」
「どーでもいいよ、そんな事。お前の行動の方がずっと奇怪だ」
『私』は鉄板を振り払い、再びナイフを振り上げた。まるで答えを確かめるかのように、言う。
「要らないのはどっちなの。私? それともあなた?」
まだ答えが出ないのか、『私』は。
「両方ハズレよ」
さすがに二度目という事で心構えが出来ていた。私はスッとバックステップをかまし、彼女の凶刃をかわす。
「どっちも要るの」
これが、答え。
「そんなはず無い。だって、あなたが要らないと思ったから、私は一度、あなたを殺したのよ」
そう、あの落雷の時。
「殺せたと思った。何でも出来る気がしたもの。でも、あなたはそんな姿になっても、まだ生き長らえていた」
「生きろと言ってくれたのよ。生きて、そして苦しめと言ってくれたのよ」
……彼が。
「うるさい! 今こそ、あなたを殺す時。そうすれば、ケンジは、ケンジは!」
「うるさいのはお前だ。人の名前を連呼するな」
持っていた鉄板を思い切り『私』の顔にぶつける。衝撃で頭が体ごと地面に落ちてゆく。
「痛そうだよ、ケンジ。それに、人の話は最後まで聞かなきゃダメ」
後ろの方から聞こえてきた。その声の主は、きっと……
「いいじゃん。なんかうるさいし」
「だからって顔面にぶつけちゃダメだよ。ほら、悶えてるじゃない」
エミ、やっぱり居たか。
「いまさら質問なんだけど、訊いていいかしら。なんで二人ともここに居るの?」
二人は顔を見合わせ、共に笑った。と、ケンジが大声で叫び
「作戦を開始します。各自配置に付け!」
私を見事に無視した。
「各自って、二人しかいないじゃない。それに、作戦って何……」
言い終える前に、ケンジが私の背中を蹴った。
「悪く思うな。お前のためだ」
私の体は空中でしばらく滑り続け、やがて『私』の近くで止まった。
「すぐに止まらない事を知りながら……ケンジ! 後で職員室……」
またもや言い終える前に、何かが私の胴を腕ごと締め付け、後ろに引き寄せられた。見ると、それはロープのようであった。
「なにコレ」
そのロープらしき紐は、なぜか『私』の方にも付いていた。グイッと締められ、『私』と一緒にロープで縛られてしまった。『私』と体が重なる。きっと私が二重になって見える事だろう。
「な……これ、ゴム製なの?」
「察しがいいね、ハル君」
高村……無事だったのか。いや、忘れていたとはいえこの仕打ちは……
「何をする気……」
「さあ、仕上げだ! やってしまえ、エミ君!」
「やっぱり、危ないですよ……止めましょうよ……」
『私』は抵抗する気を見せない。気絶したのか! ええい、役に立たない!
「ほら、ハル君が逃げてしまうぞ。確かに荒療治だがやむを得ない。やってしまえ」
「ううっ……ごめんね、ハル!」
エミは何やらを手に持って近づいてくる。青い火花のような物を散らせて……って、それは!
「スタンガン!? 落ち着いて考えて、エミ! きっかけが電気だからってその考えは安直過ぎるんじゃ……」
エミがスタンガンをバチバチ鳴らし、目をつむって駆けてくる。
「ごめんなさい!」
異様な光景の脇にいるケンジは笑っていた。
「問答無用だ! 黙って食らえ」
高村は頷くように言った。
「私の手製でね。殺傷能力もあるほど高圧電流が流れている。だが、落雷を耐えた君なら大丈夫だろう……」
私に向かってガッツポーズをかますケンジ。
「大丈夫。俺を、信じろ!」
「信じられるか! 私はクサイ台詞になんか騙されない! 殺傷能力って、殺傷能力って!」
その殺傷能力が私の顔にまで迫る。瞬間、激しい電流が私の中を駆けめぐり、意識が遠のいていった。
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