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四言で綴る斜な日記。毎日更新する予定でした。
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 中三にして迷子というのはなかなか情けないものだ。どうしようか。
 見慣れない道路。目の前には『本里』と書かれた表札。手がかりが少ないな……
 そもそもどうやってここに来たんだっけ。ここへ至る道順すら覚えていない。酒の力だろうか。いや、泥酔するまでは飲んだことが無いし。でも、ここに立ち尽くしていたということはやはり何かしら……夢遊病か。それは無いだろう。今まで夢遊病である片鱗などは無かったし。
 ……悠長な思考だったのだな。しかもこの呑気さはあの事に気付くまで続いたというのだからお笑い種だ。
 ここに留まっていても何も進展しないだろうということを悟って、重い腰を動かそうとしていた時だった。向こうから見える人影。それはまさしくエミのものだった。誰かと話しながらこちらへ歩んでくる。助かった。
「エミ、ちょっと助けてくれるー?」
 わざわざ手を振って彼女を待っていたのだが、私の姿を確認するやいなや、立ち止まって隣に居る人と談義し始めた。
 誰だろうな、あの人は。エミと一緒に並んで歩くような人が思い当たらないのだけれど。
 待っていても埒が明かない。さっさと道を訊いて、とっとと帰ろう。そう思い立ち、エミの元へ駆け出そうとした時、私はやっと気付いた。
 天然――そう言われても仕方が無い。まさに愚の骨頂。
 私の足は見事に地面を通過――通過は表現が悪いか――その後つんのめり、腹這いになった状態で、空中――地面からおよそ数センチの所へ体ごと投げ出された。
 何が起こったのか、しばらくは分からなかった。当然だ。地面を蹴れば歩ける、と勝手に想像し、それがあたかも人類普遍の原理であるかのように15年間振舞ってきたのだから。私は浅学だったろうか。そうではない、そうではないと信じる。この不可思議な現象への疑問とは別に、もう一つ考えなければならないことがある。倒れるときに垣間見た、なにやら青い物……私の腕の動きに合わせるかのように、ちらちらと視界に入ってきた物。私はふと、自分の腕を見た。
 青い。しかも半透明だ。それはガスバーナーの火に似ていた。存在すらうかがわしい、透き通っていて、淡く儚い青。青……青!?
 私の腕が、体が、透き通っている!? 信じられない。信じられない! こんなこと、現実にあるはずが……
 ……あ、夢か。
 わけの分からない土地に立ち尽くしていたり、唐突にエミが現れたり、体が青く透き通っていたりしたのも、全てに合点が行くいい感じの結論じゃないか。うすうす感づいてはいたけれど、ここまで明確な虚構が出て来たのだから、もうこれは最終結論確定だ。さて、楽しむのも悪くは無いが、こんな意味不明な夢からはさっさと抜け出したいのでね。そう思い、私はほっぺをつねろうとした。
 ……指に頬の感触を感じない。スカスカと、文字通り雲を掴むような感覚。まさかと思い、手をグーにして、思い切り顔に向けて振ってみた。痛みはおろか、皮膚の感覚すら無くなっている。貫通……しているのだろう、すでに右手は左耳を掴めるくらいの位置に到達している。
ストレスかな。ろくな夢を見ないし、近々エミを引き連れてカラオケにでも行こう。
 とりあえず現実へは戻れないことが分かったので、この稀有な夢をエンジョイすることにする。夢なら、どうにかこうにか頑張れば立ち上がれるんじゃないか。きっとそうだろう。私は立ち上がろうとしてみた。すると、ゆっくりであったが、体が持ち上がった。そしてそのまま宙に浮かぶ。
 あー、なるほど。思った通りに動くのね。なんか、TVゲームの感覚に近い。
 立ち上がれてホッと一息……つく暇も無かった。何かがこっちに来る。猛ダッシュでやって来る。この人はエミと会話していた人じゃないか。しかも笑顔。満面の笑みだ。
「喰らえ! 飛び膝蹴り!」
 言うが早いか、その人は空中に身を投げ出し、スニーカーの裏面を見せるようにして飛び込んできた。とっさの事だ。反応できるわけも無い。その人の靴が私の腹部をえぐる。耐え難い腹痛。私の体は後ろの方へ投げ出され、空中でゆっくりと静止した。
「どこが飛び膝蹴り!? ただの飛び蹴りじゃないの!」
 反射的に口から出たが、ツッコむ所はそこじゃない。むしろ言及すべきはこの痛みだ。夢……じゃないのか。夢であるはずなのだ。夢じゃないと、私が困る!
「やっぱハルじゃねえか! ま、どんな姿でもお前はお前だな」
「ハル……やっぱりハルなんだね!」
 どの辺でこの二人はそう判断したのだろうか。
「ハル!」
 エミは何かしら機会があるとすぐに私に抱きつこうとする。私は若干の心構えをして、エミを待った。私の元へ駆け寄るエミ。溢れんばかりの美麗な微笑を顔に宿しながら近づき、私を抱擁しようと、手を伸ばした。エミの手は空を切り、重力に流されるまま私の足元に倒れた。うつ伏せになっているエミは、なにやら悲しい声で呟く。
「さわれないよぉ……」
 私が一番ビックリだ! 飛び蹴りはきちんとヒットしたのに、なんでエミの腕は通って行くんだ!?
目眩がする。吐き気もするな。ああ、訳が分からない。夢じゃないのか。じゃあこれは何だ。この素っ頓狂な体は何だ。
「楽しそうじゃねえか。その体」
 私の驚いた顔を見てよくそんな事が言えるね。
「楽しくないよ。だって、さわれもしないんだよ!」
 エミは立ち上がりざまに怒る。
「触れないから楽しいんだろ。何でも出来そうだよなぁ……」
「何考えてるの! ハルが大変な目に会ってるのに!」
「だってよぉ、あっちのハルを見たろ? 俺はむしろ嬉しいね。元のハルが残っててくれて」
「それは……そうね。何があっても、ハルはハルよね」
 置きざりかい。
「どうすっかな……」
 エミの頭上に電球が一つきらめいたように見えた。
「ねえ、二人を会わせてみたらどうかしら」
「混乱するだろうよ。それよりも、医者か誰かに……」
 気にしないで。夢ですから。夢のはずですから!
「そうだ、あの人の所へ行こう!」
 エミは首をかしげながら訊ねる。
「あの人って、高村さんのこと?」
「ご名答!」
 ……誰?
「じゃ、俺はカバン置いてくるよ。その後高村に訊きに行こうぜ!」
 そう言って目の前にあった家へ入っていった。そうか。
「あの人、本里って言うんだ」
 その言葉を聞いた途端に、エミは驚嘆すべき速さでこっちに首を向ける。
「え……?」
「妙に馴れ馴れしいけど。何? エミの彼氏?」
 エミは無表情のまま顔を赤らめた後、若干怒るようにして言う。
「うそ! 嘘だって言って、ハル!」
「何が?」
「ケンジを知らないはず無いでしょ!?」
「ああ、下はケンジって言うんだ。名前で呼び合う仲なんだ……へぇ……」
「私は……知ってるのよね?」
「何言ってるの? エミはエミでしょう?」
「……ケンジの事、忘れちゃったの?」
「忘れるも何も、初対面でしょ」
 だから、見知らぬ人に飛び蹴りを食ったときはものすごく驚いた。
「頭がとっても爽やかな人ね。エミ、悪いことは言わないからさっさと別れてしまいなさい」
「ハル……もしかして……」
 エミの言葉を遮るかのように、玄関の戸が開く。
「さあ、行くか!」
「待って! ハルが……ハルが!」
「エミ、どうしたんだよ」
「記憶喪失なの!」
 は?
「いいじゃねえか。そのうち高村が何とかしてくれるさ」
「良く無いよ! だって、ケンジのことも忘れてる!」
「そうか……だが、性格が変わっていないだけマシだと思わないか?」
「うん……そうだけど……」
「おいおい自己紹介するさ」
「冷静なんだね」
「あんな事があった後じゃなぁ……そりゃ冷静にもなるって」
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 夢だから何でもできる。空を自由に飛んでみたり、家の壁をすり抜けて中に入ることもできる。もはや少しの不安もない。だって、夢なんだもの。
「なんであの時、俺の蹴りだけヒットしたんだろうな」
 言わないで。言わないで!
「都合良く忘れようとしていたのに、なんでまたそんな事言うのよ」
 ケンジとやらがとぼけて言った。
「忘れる? なんで」
「これが夢の中のはずだからよ!」
「ハル、夢じゃないよ。だってハルを見つけた時、私とケンジでお互いのホッペをつねってみたもん」
「めっちゃ強くつねるんだもんな。ちぎれるかと思ったぜ」
「夢よ。夢以外の何物でもない。そう、自室の布団の中でみている悪夢。他に何があるって言うのよ」
「いや、違うって。お前だって蹴り食らった時痛かったろ?」
 痛かったさ。痛かったよ。身悶えるくらいに。
「いいえ。往々にして夢の中の登場人物はもっともらしい事を言うものよ」
「いつも冷静なお前らしくないじゃねえか。現実から目を逸らすなよ」
 何故この人が私のいつもを知っているのか全く不可解で奇っ怪なのだが今は不問にしておく。
「なんで二人ともそんなに冷静なのよ! 幽霊みたいな私が突然現れて、逃げようともしなかったわけ!?」
「そりゃあ……アレだ。ほら、アレ」
「アレって何よ」
「エミ、頼んだ!」
「え!? え、えっとね、私たち、ついさっきまでハルと会っていたの」
「どういう事?」
「それはね、えーっと……あの後、二人で帰る途中に、ハルが道ばたで倒れているのを見つけたの」
「答えとしては不適なんじゃない?」
「とりあえず、聞いて」
 その話がどう繋がると?
 ケンジとエミが代わる代わる説明していった。
「んで、さすがにウズラ30個はマズかったかなぁと思って、ハルを叩き起こそうとしたんだが」
「いくら呼んでも返事が無くって」
「俺が4の時固めを食らわしたのに、一向に返事がないモンだから」
 その行為にいささか疑問が。
「すぐに救急車を呼んだの」
「初めてだったぜ。救急車に乗るなんてな」
「しばらくして、病院に着いたの。それで、いろいろ検査して……」
「ま、脈あったし。そんなにおおごとでも無いかなーとか思ってたんだが」
「おおごとだったの」
「おおごとだったな」
 口をそろえて言うほど?
「待合室で雑誌を読みながらハルを待ってたんだけど……」
「突然『この変態! どこ触る気よ!』って声が聞こえてきてさ」
「ハルの声だ、ってすぐに分かったわ」
「でさ、その後出てきたハルがまた……な」
「うん。すごかったね」
 勿体ぶってないでとっとと教えたらどうですか。
「診療室を飛び出したハルがこっちに走ってきて『ケンジ! エミ! ありがとねー、心配してきてくれたんだぁ!』って」
「数年来見ていない、とびっきりの笑顔で」
「……笑顔で」
 笑顔で……
「口調も違ったしなぁ」
「性格も違ったね……」
 ……人違いだろう。
「俺は直感したよ。こいつ、ボケに転向しやがったなって」
 違うだろ!!
「でも、ほんとに別人みたいだった」
「あの時の衝撃は……忘れようがないぜ」
「さばさばしてる、っていうか、垢抜けている、っていうか……」
「あれはあれで新鮮だったけどな」
 ……それで?
「それで、私たちはハルを元に戻そうと……」
「ハルの前でいろんなボケをかました」
 待て。何かが根本から間違っている。
「だけど……乗っかってくれなくて……」
 エミもやったのか。
「あまりに居た堪れなくなってきてな」
「逃げるようにして帰ったの」
「んで、歩きながら、今後の漫才について井戸端会議に花を咲かせていると……」
 漫才?
「私を見つけた、と」
「ご名答」
 ……どこからが嘘だ?
「で、その後蹴った理由は?」
「それはね、もしハルなら……」
「もしハルなら、何が起こってもまずツッコミを入れにくるだろうからな」
 それで飛び膝蹴りか。
「予想通りツッコミだった、と言うことで」
「正真正銘、本物のハルだ、って思ったの」
 私が幽霊になっていることに疑問はないのか。
「まあ、ちょっと透けてるけど関係ないし」
 大有りなんじゃないだろうか。しかも飛んでるし。
「いいじゃねえか。楽しそうだし、命に関わりそうなことでもないし」
 それは……確かにそうだが。
「ほら、説明している間に着いちまったよ」
 ケンジが指で示す方向を見ると、そこには割と大きな古めかしい一軒家が建っていた。
「ここ?」
 表札には『高村』と書かれていた。
「本名だったんだ」
 エミは感心しながら言った。どういう意味だ。
「実は俺も、中に入るのは初めてだったり……」
 不安だ。
 玄関で出迎えてくれたこの人は、若干の驚きとおののきを顔に浮かべながら言う。
「ハ、ハル君か。まさか研究所を朱に染めたりはしないだろうね?」
 なんで怯えてるの?
「大丈夫です。ウィークポイントさえ刺激しなければ」
 なに? 何の話?
「あれ……ハル、もしかして高村さん……覚えてないの?」
 いくら記憶を探し漁りひっくり返ししようとも、常時白衣の人間は見当たらない。
「初対面だと記憶しているけど?」
「なに? 別人かね? 双子だったのか。気付かなんだ」
「あー……エミ! 説明してやってくれ。俺とハルはその間に打ち合わせすっから」
「えぇ! そんな!」
「ほら行くぞ、ハル」
 ケンジは玄関を離れ、誰も通らない私道に歩みを進めた。仕方がないので私も付いてゆく。
「ハル、あの人はマッドサイエンティスト高村といってな……」
「なんでマッドなの?」
「そこはツッコまなくていい」
 誰しも疑問に思う所だけど。
「あの人はとても優秀な科学者なんだ。きっとお前の謎も、科学的に解明してくれるだろう」
「透けるとか、触れないとか?」
「ああ、そうだ。んで、こっからが大事だよく聞け」
「いいからさっさと言いなさいよ」
「それはだな……何があっても高村さんに危害を加えない事。いいか?」
「いいも何も、私が何をするって言うのよ」
「何を言われても、何を食わされても、絶対に暴れるなよ」
「暴れるって何よ」
「いいから約束しろ。さ、はやく」
 ケンジが何を恐れているのか、私には皆目見当が付かない。が、とりあえずこの辺は従っておいた方が良いのだろうな。
「よく分からないけど、とりあえず誓っておくわ」
「よし、これで万事OKだな!」

 ほの暗い階段を抜け、案内された先は地下室だった。コンクリートで出来た灰色の壁に、薬品や実験器具や――なぜか刃物が並んだ棚、小さなテーブルが複数個。殺風景と言うほか無い。出来れば付き添いなども欲しかったのだが、あの二人はそそくさと帰ってしまった。薄情者。
「では、これからじっけ……おっと、検査をしようか」
 実験って言いかけた?
「さて、まずはこの実験からやってみるかね」
 実験って言った!
 それからしばらく意味不明な実験が続いた。液体の中に手を突っ込んだり、体になにやらの機械を刺したり、あまつさえ私に物を投げてきたりした。
「高村さん、これって意味あるんですか?」
 鉄の塊を手に持った高村が弁明する。
「ふむ……もうすぐ何らかの結論が出そうだ。しばし耐えてくれたまえ」
 鉄の塊が私の頭を通ってゆく。痛くはないけど、なんだか痛い気がする。
 何やかんややっていたようだが、しばらくして高村は奥の部屋に閉じこもってしまった。
「はぁ……私、何やってんだろ」
 現実だという事は、いい加減に認めなければならなかった。あまりにこの世界は現実味を帯びているし、私が変になっている事以外、何一つ変わらない日常がこの世界で展開されているのだから。ただ、それが嫌で嫌でたまらない。私だけが変なのだ。私だけが。出来れば夢だと思いたい。どうか夢オチにしてください。どうか……
「最後の実験だ。私の仮説が正しければきっと……」
 そう言って高村はガラスの窓を持ってきた。
「それをまた私にぶつけるの?」
「いや、触ってくれるだけで構わない」
 触れないのは承知のくせに。私は多少の倦怠感を覚えながら、そのガラス窓に触れてみた。
「あ!」
 思わず口からこぼれる。だって、さわれたんだもの。ガラスに私の指紋が写る。久々に感じた、モノの感触。ひんやりと冷たく、硬かった。
「やはりそうか」
「分かったんですか?」
「やはり君の体は……」
「私の体は……?」


「うわぁ……私だ。私が幽霊になってる」
「これが私……鏡を見てるみたい。あまり実感が湧かないわね」
 居なくなったと思ったケンジとエミが、『私』を引き連れて戻ってきた。ぼっさぼさの髪、他人を気にしないその服装。確かに『私』そのものだった。しかし顔は……鏡で見る顔はいつも冷たく倦怠で溢れていたが、『私』の顔はやや間が抜けていて常に楽しそうにしている。
「気味が悪いな。二人のハルってのも」
「そうだね。同じ人が二人そろって居るんだもんね」
 きょろきょろと視線を動かしている。好奇心の塊を含んだ目が私を貫く。
「初めて会った幽霊さんが私なんて……運命を感じちゃうっ!」
 想像以上に『私』は私じゃ無かった。さん付け、語尾に促音。信じられない。
「楽しそうね! 飛べるんだ……いいなぁ……私も大空を飛んでみたい!」
 ケンジと負けず劣らずといった所か。
「ねえねえ、学校どうする? どうせなら一緒に行こうよ。学校のみんな、びっくりするよ! そうだ、メールして友達みんなに教えておこう! あ……やっぱり、ドッキリ的なモノがあった方が良いよね。うん、そうしよう!」
 よく喋る女だ。友達にしたくないタイプだな。
「そういえばさ、そのゴム手袋、何なんだ?」
 ケンジが指し示す私の手には、ピンクのゴム手袋が装着されている。
「これはね……」


「その体、実は電気で出来ているのではないかと思うのだよ」
 バカ?
「なんだね、その呆れたような目は。ガラスが触れたのだから、間違いは無い!」
「ガラスと電気とどう関係があるわけ?」
「ガラスは絶縁体。電気を通さないのだよ。だから、触れたのだな」
 電気を通さない物は触れる……
「え? じゃあ、もしかして……」
「気付いたかね? ゴム手袋さえ付ければ、君はどんな物でも触れるようになるのだよ」
 なるほど。伊達に科学者を名乗っているわけではないか。
「そうだ。尊敬の眼差しで見ると良い。朝の時の目などは君に似合わないからな」
「朝? 何かありました?」
「胸が洗濯板のようだと言ったから、それで君が怒って……」
 !
「ゴム手袋を出しなさい」
「っ! 忘れていた! 悪かった。謝るからその冷たい声を元に戻し……」
「黙って差し出せ」
「お願いだ。やめてくれ」
「さもなくば地下室に断末魔が響く事になる」
「それは差し出しても同じだろう!? すまなかった。失言だった。だから……」
「あら、これは……ガラスのナイフね。切れるのかしら、試してみてみましょう」
「しまった! 待て、刃物は止めたまえ! そんな……そんなに大きく振りかぶらないでくれ! 本気で死んでしまう! やめろ!」


「で、暴れたのか」
「え? 何の事?」
「ゴム手袋に血が……まさか殺したんじゃ……!」
「しないわよ。流石にそこまでは。ただ、色彩豊かな顔にしてあげたけどね。赤とか青とか」
「……ゴメン、高村。俺が付いていればこんな事には……」
 失敬な。私にだって了見という物はある。
「早く……お引き取りになってもらいたい……私には……もう、余力が残されていない……」
 階段から声がする。振り返ってみると、顔面がぼこぼこに腫れ、切り傷まみれの高村が地下室から出てきていた。
「た、高村ぁ!」
「高村さん!」
「うっわぁ……え? 『私』がやったの? コレ」
「さて、帰りましょうか」
「早々に帰ってくれ! 死んでしまう!」

 翌日、日差しが弱く、割と涼しげな朝。
「なんでここに来たわけ?」
 玄関で立ちつくしているケンジとエミに尋ねる。
「朝に弱いから毎朝迎えに来て欲しいと言ったのはお前だろ! 忘れたとは言わせねぇ!」
 ……忘れた。
「落ち着いて、ケンジ。ハルは記憶喪失なんだから。その辺の事も考えてあげないと……」
 エミの言葉を遮り、玄関の戸が開く。中から登場するは……
「おはよう! いつもお迎えありがとね!」
 『私』だった。ぼさぼさだった髪にはヘアピンがいくつか刺さっている。他の女子と同じように、ワイシャツの上にカーディガン、そしてやや短めのスカート。仰天だよ。
「うぁ……」
 ケンジも思わず呻く。
「さあ、行きましょ!」
 やたらとテンションが上がってしまった『私』を先頭に、だらだらと歩き始める二人。
「私は家に居るわ。先生がこの姿に疑問を持たないはずは無いしね」
 私は二人に手を振った。しかし三人分返ってきた。
「そ、そうか。じゃあな……」
「じゃあね……ハル……」
「暇になったら学校に来なよ。楽しそうだしさ!」
 アレは本当に私なのか? 手を千切れんばかりに振っている、あの人が。目一杯にオシャレをしている、あの人が。
 しばらく手を振り続け、やがて三人が見えなくなっていった。
「さて、私もそろそろ行こうかしらね」
 あんな訳の分からない人を私の代理として登校させるわけにもいかず、私が三年間で築いた学級内でのイメージを崩されるわけにもいかない。『私』の奇行を観察するため、尾行をしてあの人を見張らなければならない。これ幸いと尾行に適した体になっているため、容易に事が運ぶだろう。
 外出するのは気が引けるけど。


「昨日は大変だったねぇ」
 『私』の言葉は大変そうに聞こえないのだが。笑って言うからだ。エミが同調する。
「雨がひどかったもんね」
 そっちかい。
 ケンジはケラケラと笑いながら言った。
「みぞおちに傘をぶつけてきたもんな」
 そんな酷い事を? って、私か。覚えちゃいない。
 『私』は頭をかきながら言う。
「あれは仕方なかったんだよ。だって、ケンジが三人で入りたいなんて言うから」
 幽霊的な話題は出ないんだな。
「それでみぞおちか。納得」
 納得しちゃった!?
「でさ、あの後、相合い傘したの?」
 『私』は興味津々といった声でにケンジとエミに訊ねた。少し悲しそうな顔をしている。トーンは変わらないが。
「いや、俺は鞄を傘代わりにした」
「私だけ使っちゃって……ケンジも……入ればよかったのに……」
 エミはややどもり気味になって、ケンジを見た。
「そっか。じゃあ、後で傘返してね」
 声のトーンが高くなった。嬉しそうなソプラノ。
 それにしても、彼女の行動は目に余るものがある。鞄をぐるぐるとぶん回し、まるで小学生のようだ。かつて私であった片鱗などはもはやほとんど無い。
 かく言う私は、彼女らの上空から見守っていたりする。意外にも見つかる事が無い。灯台もと暗しと言った所か。
「ハル、体の方は大丈夫なの? 道端で倒れちゃってたけど」
「うん。なんか雷に当たったらしいけど、全然平気だった」
 雷に当たって平気な奴がどこに居る。
「かみなりぃ? 当たったら死んじゃうんじゃねえの? 普通」
 だから死んじゃってこんな姿に? ……いやいや、それにしたってあり得ない。
「死ななかったのよー。ヤブ医者から『奇跡だ!』って言われた」
 私が飛んでいる事こそミラクルだと思うが。
 エミはボーっと空を見つめた後、なにかを閃いて言った。
「ウズラのおかげだね!」
 エミ、ウズラと言うのはね、百害有って一利無しなんだよ。あのぐにょぐにょとした食感は内臓の類を彷彿とさせるしね。
「そうだね。ウズラのおかげ」
「お! 好みが変わったのか?」
「二人のおかげでウズラが好きになっちゃったんだ」
 あの物体が好きになってしまったと? どれほどの拷問を受けたらそんなになるんだ?
「じゃあ、今日は家でウズラパーティーしよう!」
 訳のわからん事を言わないでくれ、エミ!
「お、いいね」
 ケンジも同調するな!
「あっちの『私』も呼んじゃおう!」
 変な提案を……まったく。
 それにしても、なんだかこの会話に違和感がある。何だろうな……話が若干噛み合っていない事だろうか……それもあるが……いや、しかし……何かが、何かがこの会話に足りないような……

 ここで冒頭に戻るわけ。
 教室内の様子も見てやろうと窓から覗いてみたのがいけなかった。おかげで、やれ触らせろ、やれ飛んでみろ、やれ壁通過してみろなどとセクハラとも取れる命令があちこちから飛んできたので、キリの良い所で逃げたわけだ。
ぶらぶらするのも何だな……昼寝をいそしむことにするか。朝だけど。
 そう思って青い空へ飛ぼうとしている時だった。
「先生! まさかそんな面倒臭い解法を使うんですか? 因数分解を教えてくださったでしょう!? 応用も出来ないんですか!」
 チッ。言わなくてもいい事を。
「公式にはめなければ出来ないんですか!? 教科書に書いてある事をなぞっているだけでしょう! あなたはそれでも教師ですか!」
 三年ほど前から常々胸中にあった言葉だ。言う必要もない。卒業するまで――後数ヶ月我慢していれば良かったのに。確かにあの教師はクズ教師。すぐに癇癪を起こすくせに、ろくな教え方をしない。が、だからといって火を付ける事もなかっただろうに。
「じゃあお前が教えてみろ。ほら、前に来て教鞭を執ってみるがいい」
 全く陰湿な……だが、首を絞めるだけだったな。
 数学は私の十八番。クソ教師の授業の後で友達によく教えていた。やはり黒板の前でも『私』はいい感じで熱弁をふるう。あーあ。これで……
「昼休みに職員室へ来い」
 宣告だよ。内申が落ちる……
 『私』は親の仇を見つけたかのように先生を睨み付ける。教壇の上では激しい視線の鍔迫り合いが繰り広げられている。これ以上怒らすな。止めておけ。
「何か気に障りましたか?」
 教室の中では静寂が打ち寄せている。ひっそりとしたその声すら室内に響く。
「授業態度に響くぞ。いい加減に止めておきなさい」
 それは同意だが。
「分かりました。先生」
 皮肉っぽく言いのけた『私』だった。その顔はどこか誇らしげ。
 私が一度やってみたかったことを見事に成し遂げてしまった。いつも計画倒れだった、あの行為。今までの私はそれを実行する勇気がなかったのだ。
 彼女は、私だ。それでいて、私ではない。
 太陽が朱に染まり始める放課後。
 特にする事も無かったため、私は一人屋上で寝ていた。屋上は実質立ち入り禁止になっている上、どの窓からも見えないため、誰にも邪魔されずに有意義な睡眠を楽しむことが出来た。が、
「今何時……」
 辺りに時計は無く、時刻を伝える物は夕日くらいしかない。真っ赤ではないから、きっと5、6時なのだろう。
「寝過ごした……」
 私は一度寝たらなかなか起きないからな。目覚ましか何か無いと非常に困る。ともあれさっさと帰らなければ。ここに居たってどうしようもない。
 私は閉まったままの扉を通過し、歩くことなく階段を下りる。やがて一階に着き、さて帰ろうかと愚直に玄関から出ようとしている時だった。
どこからか声がする。こんな時間に残っているとすれば部活の人か先生くらいなものなのだが、その声は確かに、教室から聞こえてきた。
 普通なら気にもとめない些細な事だ。しかし、この間延びした声には聞き覚えがあった。間違いなく、あの人の声。
 私は急いだ。第六感が警告のサイレンをけたたましく鳴らせているのだ。
「んで、わざわざ手紙で呼び出した理由は?」
 三年五組、私達の教室。そこに彼らは居た。夕日を背に問いつめるケンジ。そして、その相手は――
「えっと……その……伝えたい事があって……」
 『私』だ。太陽のせいか、『私』がものすごく赤く見える。ただ、一番赤いのは顔であった。
「手紙でも言えないような用件なのか?」
 さすがに……鈍感な私でも分かる。どうする。止めるべきか? 傍観すべきか?
「あ! ハル、探したんだよ!」
 エミ……来ない方がいい。きっと後悔する。
「どうしたの? 教室には誰も……」
 そう言いかけて、エミは口ごもる。私の隣で中の様子を見つめるエミ。扉の窓越しに『私』とケンジが見える。エミの目には、どう映っているのだろうか……
「なあ、ここで言わなきゃいけない事なのか?」
 私より鈍感だな……
「……その……えっと……」
 『私』はうつむき、下ばかり見ている。口を開き、喉の奥から声にならぬ声を小さく発し、やがてまた口を閉じる。口をぱくぱくさせて、まるで魚のようだ。それも、陸に揚げられて死にかけのやつ。
「どうしたんだよ。お前らしくもない」
 そうだね。私はそんなに床のタイルが好きな訳じゃないもんね。
「私……私っ……」
 悲痛な『私』の呻き。悲愴なエミの顔。どっちも、違った意味で見たくない。
「どうした? 腹でも痛いのか。保健室まで連れてってやろうか? 肩だけなら貸してやらない事も……」
 ケンジは皮肉っぽく言った。しかし、それはすでに冗談にならない。『私』の次の言葉は……多分、きっと、恐らく……
「ケンジ……付き合って」
 思い出した。あの日の事、そして、ケンジの事を。あの日、私が何を思ったのか。あの日、私は何をしてしまったのか。全て思い出してしまった。
 そして解ってしまった。今日、なぜ彼女がこの行為に至ったのかを。
 熟れたトマトのように赤くなった『私』の顔を見つめ、ケンジはゆっくりと、躊躇うように言う。
「ごめん。俺……お前の事が好きだから……」
 は?
「え? あ……そういう事……」
 少し戸惑った後、『私』は唇を噛んだ。悔しそうな目をしている。だが、何かを恨んでいるような目でもあった。
「うぅっ……ケンジ……」
 私の横で、静かに嗚咽を漏らすエミ。顔を隠すこともなく、ひたすら手の甲で涙を拭っていた。
 ……どうやらケンジの発言を理解していないのは私だけのようだ。なんだというのだ一体! 言っていることが矛盾している!
「ゴメンな」
 申し訳無さそうに言うケンジ。
「ううん、私こそ……変な事言っちゃってゴメンね」
 『私』は模造品の笑顔をケンジに見せた。どこかぎこちなく、やはり無理をしているのだなとはっきり見て取れた。
「……じゃ、帰るよ。また明日な!」
 ケンジはいつも通りの笑顔を見せて、鞄を手に教室を出ようとした。
「うん、また明日!」
 出来るだけ普段通り。その思いが二人の笑いに込められていた。
「……ほら、行くよ。エミ」
 一部始終見てました、なんて事が知れたら危険な事になる。一刻も早くこの場から立ち去らなければ。私はさめざめ泣くエミを説き伏せて、一旦隣のクラスに隠れた。
 廊下に反響する二人の足音。私とエミはその音が消えるまで息を潜めた。
 だんだん思考が落ち着いてきた。そして、ある事実が私の脳に響く。
 ……玉砕してしまったのだ、『私』は。私よりも数倍行動力があって、私よりも数倍勇気がある、今までずっと目標としていた『私』ですら――理想の『私』ですら……駄目だったんだ。
「まあ、仕方ないよ。私は一度諦めたんだから……」
 エミのために。横で泣いている、エミのために。
「だから私は嫌だったのよ! 気まずくなるくらいだったら言わない方がマシ。そう思わない!?」
「私に恋愛相談されてもな……三人も……頼りにしてくれるのは嬉しいのだが……」
「黙りなさい。寝床を借りるだけだと言ったでしょう」
「自分の家で寝たらどうだね」
「言わなかったかしら。失恋中の私の部屋で堂々と寝泊まりする勇気は無いって」
「エミ君の家はどうなんだ。あの気立ての良い子なら受け入れてくれるだろう」
「気を遣わせたくないのよ……」
「ケンジ君の家ならば……」
「ゴム手袋持ってない?」
「いや、すまない」
 第一回グチ会を高村宅で開催する次第になった。私がここに押しかけた時、高村は一瞬凄まじい恐怖の色を浮かべたが、やがて私が泣いているのに気付くと、理由も聞かずに中へ入れてくれた。その後ヒステリックに暴れてしまうのも知らずに。
「私は躊躇っていたの! そんな博打、リスクが高すぎるから! だからエミに譲ったの! エミが駄目だったら挑戦しよう、って思ったから! 自分で自分が嫌になる!」
「そろそろ暇したいのだが……あっちの方とも打ち合わせをしなければ……」
「さっきから何、私の話が聞けないっての!?」
 高村はとても迷惑そうな顔をしたが、さして気にも止めなかった。
「狡猾で臆病!! そんな自分が嫌になった! 嫌になったのよ!」
「ここは託児所じゃないし、恋愛相談室でもないのだが……」
「黙って聴いてろ!」
 いよいよ高村は引き始めたが、気にしない事にする。
「汚い私……堪らなく嫌だった。そう、だからあの日、私は言った」
「 」
 小さく呟いたその言葉は、耳に届く前にインターホンによって打ち消された。
「む、客だな」
 地獄で仏と言わんばかりに駆けだしてゆく高村。ドスドスと廊下を走り、やがてドアが開く音がした。
「おや……どうしたんだい?」
 誰かと話しているようだ。
「ふむ、なるほど。では、こちらに来たまえ」
 誰かを招待しているようだ。
「あれが欲しいのか。いや、あれは私のコレクションだからな……貸すだけだ。それでもいいならば」
 何かを渡すらしい。
「ほら、よく切れるから取り扱いには重々気を付けてくれたまえよ」
 何か刃物を渡したらしい。そういえば、なぜか棚に刃物が並んでいたな。
「インテリアとしてはなかなか優れているのだがな、いざ使おうとすると勇気が要るのだよ……ん? 試し切りかね。まあそうだろうな。切れるかどうか、誰しも最初は疑うものだ。野菜か何かがいいだろうな」
 何かをまさぐる音が聞こえる。
「やはり人参などが良いだろうね。まさに定番……」
 ドサッ。何か、大きな物が倒れた音がした。
「な……! や、やめ……」
 高村が呻いている。何が起こっているんだ。私は急ぎ高村の元へ移動する。刃物、倒れた音。その二つを結びつけたくない。願わくば、予想と外れていますように。
 地下の研究室。冷蔵庫が開け放されていて、その下には赤い染みが出来た白衣。
「高村!」
 返事が無い。一刻を争う。
「こんばんは」
 丁寧に挨拶をするこの人。血塗られた凶刃を手に、狂気の笑顔を私と同じ顔に含ませながら。
「私は幸運ね。ここであなたに会えるなんて」
 アレは『私』か? 私はそんな顔しない。少なくとも、私は。
「なんで高村を? 答えなさい!」
「ガラスなら触れるのよね? ということは、ガラスの刃物ならあなたを切り裂けるという事」
 聞いちゃいない。しかし、『私』の言わんとしていることには察しが付いた。
「私を……殺しに来たの?」
「あら、正解。思い出したのかしら? あの日私達が言った事」
「ええ、思い出したわよ」
 あの日、あの時、雨に打たれながら願った事。
「あなたの口から聞きたいわね」
 そうだろうな。言いたくないが、私が言うべきだ。


「邪魔だ。消えてしまえ、臆病な私」

「その通り。だから……はい!」
 彼女は私の手にガラスのナイフを押しつけた。それの意味が、私には痛いほどよく分かる。
「見ててあげる。私が手を下すまでも無さそうだし」
 冷たくて、悲しい微笑みを私に見せた。
 私は刃を喉元に向ける。私は要らない。邪魔なんだ。そう言ったじゃないか。心の底から、消えてしまいたいと願ったじゃないか。
「早くしてよね。私はこれから、リトライするんだから」
 私は勢いを付けるため、ナイフを喉から離した。
「要らないんだ……私」
「まさかぁ! そんな事ねえよ」
 子供くさい声がする。もしやと思って振り返ると、目の前にはスニーカーの裏側があった。
「かかと落とし!」
 まず鼻に激痛。悶える暇も無く、背骨が折れそうなほど体が反れ、後ろに倒れた。空中をカーリングのストーンのように滑っていたが、数秒後にようやく静止する。即座に起き上がって、言うべきは一つ。
「辞書くらい引けこのバカケンジ! どこがかかと落としだ!」
 そして私はなぜかここにいるバカを睨み叫んだ。
「そうそう。それくらい元気じゃねえと、俺たちの隣は務まらねえぜ!」
 ケンジは堂々と言い放つ。隣……そうか! ハハッ、このバカケンジ……
「そうね、忘れていたわ」
 体勢を立て直す。視界がよりはっきりと、鮮明になった気がする。
「そうだ、忘れちゃいけない」
 基本だろう?
「ボケには」
「ツッコミが居ないと!」
 『私』は溜息混じりに私達に言った。
「……なに言ってんの?」
 やっと解った。朝の違和感。
「あんたらボケっぱなしなのよ。三人ともじゃないの」
「締まりがないよなぁ」
 三人組のツッコミ担当。生きる意味なんて、それだけで十分じゃないか。
「これは返すわ。だって、死ぬ意味が無くなったんだもの」
 私はナイフを地面に落とした。乾いた音がコンクリートに響く。
「臆病者……この期に及んでまだ……消えたくないと言い張るなんて!」
 『私』は素早くナイフを拾い、その刃を私に向けて振り上げる。鋭い刃は妖しく光り、私の眼前に迫る。
「っと、危ないからそんなモンしまっちまえ」
 鉄板……ナイフの代わりに、錆び付いた鉄板が私の視界を占めた。ガキン、と金属音が響く。
「体を張って助けてみたらどうなの? その辺に落ちていた物を使うんじゃあ、感動も半減よ」
「中三にそんな度量を求める方がおかしいって」
 しかも横から鉄板だけ出して……格好悪い。
「この臆病者を庇わないで、ケンジ。こいつは……友達を実験台にしようとした汚い女よ! 私は私の手で、ケリを付けなければ……」
「どーでもいいよ、そんな事。お前の行動の方がずっと奇怪だ」
 『私』は鉄板を振り払い、再びナイフを振り上げた。まるで答えを確かめるかのように、言う。
「要らないのはどっちなの。私? それともあなた?」
 まだ答えが出ないのか、『私』は。
「両方ハズレよ」
 さすがに二度目という事で心構えが出来ていた。私はスッとバックステップをかまし、彼女の凶刃をかわす。
「どっちも要るの」
 これが、答え。
「そんなはず無い。だって、あなたが要らないと思ったから、私は一度、あなたを殺したのよ」
 そう、あの落雷の時。
「殺せたと思った。何でも出来る気がしたもの。でも、あなたはそんな姿になっても、まだ生き長らえていた」
「生きろと言ってくれたのよ。生きて、そして苦しめと言ってくれたのよ」
 ……彼が。
「うるさい! 今こそ、あなたを殺す時。そうすれば、ケンジは、ケンジは!」
「うるさいのはお前だ。人の名前を連呼するな」
 持っていた鉄板を思い切り『私』の顔にぶつける。衝撃で頭が体ごと地面に落ちてゆく。
「痛そうだよ、ケンジ。それに、人の話は最後まで聞かなきゃダメ」
 後ろの方から聞こえてきた。その声の主は、きっと……
「いいじゃん。なんかうるさいし」
「だからって顔面にぶつけちゃダメだよ。ほら、悶えてるじゃない」
 エミ、やっぱり居たか。
「いまさら質問なんだけど、訊いていいかしら。なんで二人ともここに居るの?」
 二人は顔を見合わせ、共に笑った。と、ケンジが大声で叫び
「作戦を開始します。各自配置に付け!」
 私を見事に無視した。
「各自って、二人しかいないじゃない。それに、作戦って何……」
 言い終える前に、ケンジが私の背中を蹴った。
「悪く思うな。お前のためだ」
 私の体は空中でしばらく滑り続け、やがて『私』の近くで止まった。
「すぐに止まらない事を知りながら……ケンジ! 後で職員室……」
 またもや言い終える前に、何かが私の胴を腕ごと締め付け、後ろに引き寄せられた。見ると、それはロープのようであった。
「なにコレ」
 そのロープらしき紐は、なぜか『私』の方にも付いていた。グイッと締められ、『私』と一緒にロープで縛られてしまった。『私』と体が重なる。きっと私が二重になって見える事だろう。
「な……これ、ゴム製なの?」
「察しがいいね、ハル君」
 高村……無事だったのか。いや、忘れていたとはいえこの仕打ちは……
「何をする気……」
「さあ、仕上げだ! やってしまえ、エミ君!」
「やっぱり、危ないですよ……止めましょうよ……」
 『私』は抵抗する気を見せない。気絶したのか! ええい、役に立たない!
「ほら、ハル君が逃げてしまうぞ。確かに荒療治だがやむを得ない。やってしまえ」
「ううっ……ごめんね、ハル!」
 エミは何やらを手に持って近づいてくる。青い火花のような物を散らせて……って、それは!
「スタンガン!? 落ち着いて考えて、エミ! きっかけが電気だからってその考えは安直過ぎるんじゃ……」
 エミがスタンガンをバチバチ鳴らし、目をつむって駆けてくる。
「ごめんなさい!」
 異様な光景の脇にいるケンジは笑っていた。
「問答無用だ! 黙って食らえ」
 高村は頷くように言った。
「私の手製でね。殺傷能力もあるほど高圧電流が流れている。だが、落雷を耐えた君なら大丈夫だろう……」
 私に向かってガッツポーズをかますケンジ。
「大丈夫。俺を、信じろ!」
「信じられるか! 私はクサイ台詞になんか騙されない! 殺傷能力って、殺傷能力って!」
 その殺傷能力が私の顔にまで迫る。瞬間、激しい電流が私の中を駆けめぐり、意識が遠のいていった。

 暑い。蒸し暑い。ここはどこだろう。真っ暗だ。ああ、当然だ。目をつぶっているのだからな。だが、暗いのもまた良い。うん、このまま永遠に瞑っていよう。目なんか覚まさなくてもいいや。
「おーい、ペチャパイ」
 !
「たった今暴言を吐いた奴出てこい! 殺してくれる!」
「やはりその起こし方には問題があったのではないかね?」
「貴様かァ! 高村!」
「違う。断じて違う。命を賭しても良い、嘘はついていない」
「ケンジ! 死にたいようだな!」
「待ってくれ! せっかく体を元に戻してやったんだから、それくらいは許してくれよ」
 ゆるさん――と、言おうとしたが、ケンジの発言を聞いて口が止まった。
 布団の感触。そして、自分の手の感触。透けていない、私の手……戻った。戻ったんだ!
 高村宅の部屋で目を覚ました私。客間なのか、意外にも整っている。エミと高村は共に畳の上で座り込み、ケンジは戸に寄りかかっている。
「ハル!」
 エミは突然立ち上がると、布団にいる私に向かってダイビングしようとしていた。彼女を受け止めれる事が何よりも嬉しく思える。
「さわれるよ……ハル!」
 エミは私の胸に顔をうずめて泣きじゃくる。
「やっと戻ったわ……心配かけて、ごめんなさい」
 でも、スタンガンはなかったな。
「ひとえに俺のおかげだ! 感謝しろ!」
「あんたは鉄板振り回して私を蹴り飛ばしただけじゃない」
「違う! 作戦開始の号令を出したのも俺だ」
「そもそも作戦って何だったのよ」
「お前を元に戻すための作戦。明日決行の予定だったんだけどな」
「ハルがあんな事になっていたんじゃ……ね」
「どうだったかね、私の迫真の演技! 死んだふりをしたおかげで気付かれずに済み……」
「なんで死んだふりをしたのよ。っていうか、刺されたんじゃなかったの?」
「それは……あれだ。先日の事がトラウマになっていてね……」
「先日って何よ」
「ほら、あの……『これは……ガラスのナイフね。切れるのかしら、試してみてみましょう』って言った時だ。覚えているかね?」
「……いいえ、覚えていないわ」
「嘘だろ」
「ま、まあね」
「その後ガラスのナイフが私の体を切り傷だらけにしてしまってね。さすがに次暴れられたら死んでしまう、と直感したのだよ。だからハル君が 昨日ここを訪れた時、自前の耐刃防護服と血糊を用意しておいた」
「耐刃……そこまで私が怖かったの?」
「あの時の君は鬼神のようだったからな」
「で、血糊はなんで用意したの?」
「血を見せれば暴れなくなるかと思ったのでね……苦肉の策だったが」
「俺らはそれを知ってたから。高村が血を出して倒れてても慌てなかった」
「なんで知ってたのよ。そして、なんであの時、あの場所に二人とも居たわけ?」
「作戦会議中にお前が押しかけてきたんだよ。びっくりしたぜ」
「あっちのハルが来た時はもっとビックリしたけどね」
 私の居ないところで話が進んでいたのか。全く難儀なことだ……私はふうっと溜息を吐いて、ぽつりと言った。
「……そっか。これで大体の疑問は晴れたわ」
「待て。こっちにはあと一つ疑問がある」
 ケンジが割り込む。ついでだから私も訊くことにした。
「……私にも、あと一つ疑問があるんだけどね」

「なんでお前を殺そうとしたんだ? あっちのハルは」
「なんであんな不可解な返事をしたの? 『私』の告白に」

『それは……秘密』



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